鎌倉は海と山に囲まれた天然の砦をなし、各所に人工的に切通しがつくられ、幕府を防衛していたた。 |
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中でも名越の切通しは当時そのままの姿を今に残している。 |
鎌倉の城内には墓を作ることは禁じられていた。このため切通しのある境界領域に墓所が設けられ、山腹に岩穴を掘り墓所とした「やぐら」が多くつくられた。
巨福呂坂・極楽寺坂の切通しのちかくはともに地獄谷といわれ、庶民の埋葬地で建長寺・極楽寺が建てられたと考えられる。
逗子にぬける新逗子トンネルの坂の上にある名越坂の切通しの上には「まんだら堂」の100を越すやぐら群がある。岩壁のやぐらは御家人や僧侶の墓所と考えられ、前面の平場が庶民の墓所と推測されている。 |
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名越の切通し |
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馬一頭が通れる幅に岩が突き出ている。
切通しを抜けようとするとき、岩陰から武士がいきなり馬で走りぬけていくような緊張感を覚える。
鎌倉を攻撃した新田義貞の軍勢も切通しの堅固な防衛線を破ることができなかった。当時そのままの姿で今われわれに迫ってくる。 |
まんだら堂内部 |
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広場から入り口を見る |
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広場にも墓石が群れている |
第2時大戦後にまんだら堂跡には法華経の行者故小山白哲老師が妙行寺を建て、あたりを畑にするため弟子の青年と二人で掘り起こすと無数の五輪搭や宝篋印搭が出土したため、すこしづつ復元をした。小山白哲老師は世界平和を祈るかたわら庭に花を育て鎌倉有数の花菖蒲やあじさいの見所にまでなった。しかし老師の死後、寺は荒れるにまかせ、まんだら堂自体も閉鎖されて現在にいたっている。数年のうちに逗子市によって整備されるということなのだが、2003年夏現在手はつけられてはいない。 |
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やぐらが随所に開口する |
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戦乱の度に埋葬される武士の死体は、犠牲になった庶民の死体も一緒になり、死体投げ込み地の様相を呈してきたという。 |
夏草が生い茂るのみである。 |
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実はまんだら堂跡には梅の木が数本あり時期にはたわわに実をつける。般若心経を唱えながら実を拾っていたときのこと、忽然と7,8人の行列が現れた。近づくにつれその風体の異様さに唖然とした。顔は真っ白く化粧され、髪は長くたてがみのようであり、背中には風呂敷づつみを背負っていた。 |
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静かにまんだら堂内を行進すると彼らはどこへともなく去って行った。まんだら堂の入り口は厳重に囲われていて簡単には入れないようになっている。彼らがどこから、何のために入ってきたのかはなぞである。もしこのページを見て心当たりがあればメールください。 |
小坪トンネルは有名な心霊スポット
まんだら堂は神奈川県逗子市小坪にある。有名な小坪トンネルのすぐ近く。この新逗子トンネルの上に、『まんだら堂跡』に続く長い階段がある。夜中、小坪トンネルを見てから、この階段を登って行く者も多い。
階段を登ると、広場にでる。その右に井戸がある。この井戸から女の幽霊が顔を覗かせるという。 |
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この奥に井戸、まんだら堂へはこの先を進む。 |
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今は供養する人もない寺に灯がともるのはいつまで待てばいいのだろうか。 |
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静寂のまんだら堂を後に海岸へ出てみれば西に沈む夕日がほのかに輝いていた。 |